★ マツイ・イサオはこんな男・・・

 ”IM R/Cフライトスクール”開設者であるマツイ・イサオは(株)アイエム産業の創始者であり、アイエムは松井勲のイニシャルです。またFAI/F3A(国際航空連盟/ラジコン模型飛行機曲技飛行)の元日本チャンピオンです。


「競技の鬼」などと言われていた1970年代後半頃、現役選手時代のマツイ・イサオと機体
コルセア/アクロナイツ。註:ブルーカップトーナメントにて

 この数年来RC(Radio Controlの略)飛行機でのアクロ飛行を目指すファンのための指南書として高い評価を得ている”RCエアロバティックス”の「基礎編」「中上級編」「最終編」を執筆するかたわら、平成7年から「IM R/Cフライトスクール」を開設して悩めるRCファンに対する指導と育成をしています。


(株)電波実験社刊になる ”RCエアロバティックス”シリーズの3巻

 毎年11月3日に恒例となって群馬県尾島町で開催される”RC航空ページェント”には、全国のRC飛行機やヘリマニヤの力作が披露されるだけでなく、国内RCメーカーのブースが並んでアウトレット商品や新製品が華やかに展示即売され、数万人のマニアが参集するRC世界最大の催しとなっています。
 さらに飛行機とヘリの世界のトップフライヤーを招待して賞金付きでおこなわれるIMA(International Air Meet)競技会があり、松井イサオは飛行機部門の解説だけでなくIAM競技委員長として活躍しています。

 また、ラジコン界最大のイベントである群馬県尾島町での”RC航空ページェント”と岡山県笠岡市の”RCフライイン笠岡”では飛行機部門のレギュラー解説者として「誰にも分かりやすい話しぶり」で人気を博しています。


”RCフライイン笠岡”で解説中のマツイ・イサオ

 世界のトップフライヤーだけを招待し、アメリカのラスベガスで賞金付きで開催されるTOC(To urnament of Champions)では自身が選手として1976年に決勝戦に残って5位入賞を果たしただけでなく、1980年代からはレギュラージャッジとして参加しています。


TOCではレギラージャッジ


3回も全米アクロチャンピオンになっているP.ワグスタッフの同乗でTOCスポンサーW.G.ベネット氏所有の
EXTRA−300Lでラスベガス空港から飛び立ってアクロフライトをする。

 また実機(本物)では1970年代にモーターグライダーのライセンスを取得してドイツ製”スポルタビア RF-5B”(複座)を所有しました。


モーターグライダー”スポルタビア RF-5B”

 1980年代になるとマイクロライトプレーン(超軽量動力機)が流行の兆しを見せ、アメリカ/マックスエアー社製”ハマー”と”ドリフター”の日本代理店として機体を輸入、パイロットスクールとフライングクラブを運営してパイロットの育成をおこない、教え子は今なお全国各地でパイロットスクールやクラブを運営しています。
 現在レッドバロンアクロチームのリーダとしてアクロ飛行で活躍している上野健久さんも当時はこの”エアロマックス・フライングクラブ”のメンバーでインストラクターでした。


マイクロライトプレーン”ドリフター”


1986年11月下旬、アイルトン・セナが本田技研と契約して始めて日本を訪れたが、その翌日にはマツイ・イサオを訪ねて教えを受けた。
その模様を掲載した”ラジコン技術誌”1987年2月号の記事。

 実機のアクロ界では1989年にIAC(International Aerobatic Club)のホームグランド、アメリカ/ウイスコンシン州フォンデュラックで開催されるジャッジスクールに出席して日本人最初のアクロ飛行競技のためのジャッジ資格を取得し、翌1990年から1972年度IACアクロ飛行競技アンリミテッド級全米チャンピオンであるB.トーマス氏についてアクロ飛行のトレーニングを開始、1994年のIACアクロ競技会には選手として出場していて陸上多発機のライセンサーでもあります。そのような事でラジコン機だけでなく実物も含めたアクロ飛行に対する広範な知識と経験を生かして、栃木県茂木町の”ツインリング/モテギ”で開催される実機のアクロ競技”ジャパングランプリ”には解説者といて参加しています。


ピッツ S−2Bでアクロトレーニングに出発(後席)
双発パイパー・セミニョールとマツイ イサオ



栃木県ツインリング「もてぎ」でおこなわれた”1999/エアロバティックHONDAグランプリ”会場で


RC試作機のテストと改良に注ぐ情熱は現役時代そのものだ。
真夏の日差しは強い。RC機コントロール中のマツイ・イサオ



1/3スケールのEXTRA−300L/ゼノア72ccガソリンエンジン付きの大型アクロ機。1994年TOCで八田肇選手が飛ばした機体。
この写真がラジコン技術誌1995年12月号の表紙を飾った。

★ マツイ自身、ゼロ戦のスケール機が飛ばしたくて始めたラジコン

 第二次大戦中台湾の新竹市にいた関係で、近くの海軍基地から発着するゼロ戦(零戦)が毎日頭上を飛んでいました。ゼロ戦を見上げながら「よ〜し。俺も乗るんだ!」と戦闘機乗り志望だったのですが、旧制中学1年で終戦となり日本に帰ることになりました。
 何も無い昭和22年(1947年)頃の中学時代に台湾での記憶をたよりに小刀一本で朴(ほう)の木を削って作ったゼロ戦でした。 1960年代になってもゼロ戦への想いはつのる一方で「ゼロ戦の精密スケールをラジコンで飛ばそう」と思うようになり、RC機のトレーニングを始めたのです。
 基礎トレーニング期間を経て一人で飛ばせるようになるとループやロールをすることになり、次に背面や錐揉み(スピン)となってアクロ競技会で腕試しをしてみようということになったのです。競技となると独特のスリルと緊張感があって一度やってみると病みつきになってしまうもので、「ゼロ戦」への夢は後回しとなり1960年代の終わり頃から1980年代にかけた現役時代には「競技の鬼」とまで言われるようになってしまったのです。
 そのようなことでマツイ・イサオにかぎらずソロフライヤーになってコントロールテクニックが上達するにしたがってアクロフライトへのスリルに引き込まれ、その結果当クラブではアクロフライヤーの割合が大きくなったのですが週末にはスケール機から電動プレーン、さらに09エンジンのラダー機まで各人各様の機体が飛んでいます。


 余談ですが縮尺1/5〜1/6の精密スケールRC機ゼロ戦となると細部までの資料集めが大仕事で仲々満足出来ません。1970年代になってから、とりあえずできるだけリアルで精密なソリッドモデルを作ってデスクトップにしようと思いつき、当時木村秀政先生に「ソリッドモデルの人間国宝的存在」とまで評価されていた田中祥一さんに依頼して1/25のソリッドモデルを作りました。
 そのデスクトップモデルのゼロ戦を見ながらRC機化への構想を練っていったのですが、数年前(株)学習研究社の要望で同社が刊行した太平洋戦史シリーズ(12)「零式艦上戦闘機」の表紙を始め中扉などに9枚の写真が使われていますが、実物だと思われているようです。


拙著”RCエアロバティクス”「中上級編」の21頁に紹介してある
”零戦52型”1/25ソリッドモデルの写真。
エンジンカウルに収められている1/25超精密スケール栄エンジン。


(株)学習研究社”太平洋戦史シリーズ「零式艦上戦闘機」の表紙。
これが、ソリッドモデルと気づく人は少ない。

★ マツイ・イサオはわが国RCヘリのパイオニア

* D.シュルーター氏の偉業

 「知る人ぞ知る」ことですが、1971年にアメリカ/ペンシルバニア州、ドイリスタウン市のセントラルバックスカウンティ飛行場でFAI/F3A(ラジコン飛行機によるアクロ飛行競技)にくわえてF3B(サーマルソアリング・グライダー)、F3D(パイロンレース)の最初の世界選手権大会が行われました。
 この大会以前にはF3(ラジコン)は3A(曲技)だけだったのですが、アメリカはこの機会を経済大国アメリカの威信発場の絶好のチャンスとして”エアロリンピック”と銘打って大がかりな宣伝を行い、第1回のグライダーとパイロンの競技をくわえたのでした。

 ちなみにこの1971年FAI世界選手権大会に臨んだ日本チームメンバーは以下のような編成でした。

F3A(アクロ)  加藤昌弘・菅原康文・霜和生
F3B(サーマル) 沖 宏之・松井 勲・平沢 勲
F3D(パイロン) 磯部健雄・村上嘉彦・板東治夫

 大会期間中の昼休み時間にはいろいろなデモンストレーションが披露されるのですが、全参加者の度肝を抜いたのはドイツからカバン社のデモチームとして参加した、D.シュルーター氏によるRCヘリの見事なフライトでした。

 


1971年のFAI模型世界選手権大会の会場でデモフライト中のシュルーター氏
ラジコン技術誌 1971年11月号表紙

 「これはいける!国土の狭い日本には最適だ・・・」と感じ、当時、沖宏之氏とカルト産業とマイクロアビオニックス社を共同経営していたことで、「カルト産業の仕事にすべきだ・・・」と決断して早速シュルーター氏と契約を結んでわが国におけるRCヘリの普及活動を開始する事にしたのでした。

★ RCヘリ創世期の状況

 ラジコンでヘリを飛ばそうとする試みは世界各国でこの数年前から行われており、ヨーロッパでは1968年に西ドイツでのRCヘリコプターの飛行競技会がおこなわれ、D.シュルーター氏が3秒間の飛行をして優勝し、2年後の1970年の競技会では30分間飛行して水平飛行から直径20〜30メートルの旋回をして優勝しました。さらにシュルーター氏は当時ドイツのRC装置メーカーのシンプロップ社オーナーのB.クラウス氏が懸賞金(当時の日本円で約200〜300万円程度)を懸けていたRCヘリの条件である、ホバーリング、前進、後進、左右、旋回にも成功しました。ちなみにそれまでのRCヘリの飛行記録は、アメリカのバーカム氏が持つ6秒間でしたからシュルーター氏の凄さは想像を絶するものでした。
 ちなみにシュルーター氏のヘリのエンジンはスーパータイガー71(2CYC)、メインローターはヒラー式スタビライザー付固定ピッチ、テールローターのジャイロは無く総重量は8〜9Kg程度でした。
 当時わが国でもRCヘリを研究していた人がおり、広島の藤山進也氏と相模RCの藤巻章平氏でしたが両者とも完全なフライトのできるレベルにまでは到達していなかったようです。

★ 未知への挑戦と普及活動

 帰国後その年の秋から翌年にかけて沖宏之氏とRCヘリ三味の日が続き、日本で発売するヘリの設計と併せてコントロールテクニックの研究に全力を注ぎました。


ラジコン技術誌に紹介された1972年1月頃、沖宏之氏とともにRCヘリフライトの猛特訓中の状況。

 その結果翌1972年春に2サイクル45エンジンサイズ”ベル/ヒュイコブラ・450”キットの発売にこぎつけ「日本RCヘリコプター協会」を設立しました。


ラジコン技術誌 1972年4月号表紙裏の三ツ星商店の広告に掲載された”ヒュイコブラ/450”

 5月には、当時埼玉県吉川市内の利根川河川敷にあった中央飛行場で「第1回RCヘリコプター講習会」を開催し、ラジコン技術誌の6月号から「ベル/ヒュイコブラ450、製作から飛行まで」のタイトルでキットの製作要領からコントロール・テクニックまでを5ヶ月にわたって連載するとともにデモフライトの啓蒙活動を全国的に展開しました。

 このようにして普及とフライヤーのコントロールテクニック向上を待って翌1973年5月に「第1回RCヘリコプター選手権大会」と銘打った世界最初のRCヘリの競技会(初級ルール)を開催するに至りました。


ラジコン技術誌 1974年3月号表紙

 この写真の画角に4機を入れるには危険なほどの密集フライトをしなければならなかった。それでもできた写真を見るとかなり離れていてがっかりする。
 左の黄色いジェットレンジャーのテールローターの回転面と緑のヒュイコブラのメインローター先端は50センチメートルくらいしか離れておらず、右の機体のメインローター先端と緑のヒュイコブラでも3メール以内くらいだから、機体同志の僅かな動きでも非常に危険である。
 この機体はシュルーターのヒラー式スタビライザー付固定ピッチメインローターで、テールローターのジャイロは付いておらず安定性と操縦性は現在のものと比較にならないほど良くない。
 であるから当時これだけの密集でフライトをするコントロールテクニックは大変なものだった。4機のRCヘリの同時フライトを表紙にしたのは世界最初だった。
 フライヤーは手前のイロコイスは沖宏之、左の黄色いジェットレンジャーが野村孝之、中央下の緑のヒュイコブラがマツイ・イサオ、右のヒュイコブラが鈴木重雄の各氏。

★ RC機の設計者としても才能を発揮・・・

 マツイ・イサオはRC飛行機設計でも早くから活動をはじめており、RC飛行機をはじめて1年後にはスケール機の習作としてキ−51、99式襲撃機を60(2cyc)エンジンサイズで製作し、完成はしていませんが生地完成の状態で現在も保存しています。


99襲撃機

 続いてジェット艦上戦闘機F−8クルセーダーのスタンドオフスケールのスポーツアクロ機を作りました。当時はまだRC装置がリード式だったことであり「これほどユニークな形状では上手く飛ばないだろう」といわれました。しかし飛ばしてみると設計時の予想通り優れた飛行性能を見せました。


クルセーダー/セミスケール機

 このような経験を経てオリジナル・スタント機の設計をおこない、”テンペスト−V”を携えて1966年5月に行われた日本無線航空会主催「第5回全日本無線操縦模型陸上機競技会」「マルチ級」に出場して優勝し、RCアクロ界のトップフライヤーの仲間入りを果たしました。
 当時のRC装置はリード式が全盛期で本格的は手引き書が要望されていたこともあり、(株)電波実験社の要請で”マルチRC機の操縦と調整法”「リード編」を執筆して1967年に発刊、2年後には「プロポ編」を発刊しました。


1967年と1969年に発刊された”マルチRC機の操縦と調整”リード編とプロポ編

 その後1980年代にかけてアクロフライヤーとして活躍すると共にスケール機からオリジナル機まで巾広いアイディアに基づいた十数機種を設計し、1970年代中頃に発表して人気を博した”コルセア/ウィークエンドスペシャル”はイギリスで発行されている1978〜9年エアロモデラー年鑑に日本人の設計したスポーツ機として掲載されています。


1978〜9年エアロモデラー年鑑と掲載された図面

 1990年代前半は1972年度全米アクロチャンピオンのB.トーマス氏について実機(ピッツS−2B)でのアクロ飛行トレーニングに精進し、1994年にはIACのアクロ競技会に出場しました。
 その後は”IM R/Cフライトスクール”とクラブを運営するかたわら、ARFキットの機体を(株)アイエム産業のために開発しており、発売された機体はどれも優れた飛行性能でマニアの信頼を得て現在に至っています。

註:写真は(株)電波実験社刊/マツイ・イサオ著 ”RCエアロバティックス”「基礎編」及び「中上級編」から転載。マツイ・イサオがIACアクロ競技会に出場した時の模様は「最終編」のカラー頁参照。

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